人生に光を!ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏』の秘密

作品・絵

ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏』

たこやき
たこやき

これ見たことある!
誰もが羨みそうな優雅な世界が描かれとるやつやな。

うらら
うらら

ああ、こんな日常だったらいいな
が詰まってるのが幸せオタク・ルノワールの作品。
このカフェは実際にパリのモンマルトルの丘にあったの。

幸せオタク…?

彼は絵の中にとことん幸せを追求したの。
まずは印象派の戦いを見ることから始めましょ。

印象派は熱き革命児たちが生み出した

「描きかけの絵」?異端児扱いされた印象派

19世紀、フランス。
サロン(展覧会)で評価されることが画家のキャリアを左右しました。
しかし、当時サロンが求めた絵は「新古典主義」が描くような歴史・神話・完成された理想の形

ジャック=ルイ=ダイヴィッド『ホラティウス兄弟の戦い』

計算し尽くされた構図と光。
もはや写真みたいやな。

輪郭線をはっきりと描かない印象派の絵はこの理想とかけ離れた異端児でしかなかったのです。

皇帝の鶴の一声もうまくはいかず

印象派軍団も黙っているわけにはいきません。その穏やかな絵のテイストとは裏腹に。
怒り狂う彼らのために、皇帝ナポレオン3世が言います。

ナポレオン3世
ナポレオン3世

じゃあサロンでなくとも、別の会場で見せてやれ

皇帝の取り計らいにより開かれた落選展ーやけくそネーミングセンスーでしたが、
ここでも彼らは批判を喰らいます。

それもそのはず、(と言っては印象派軍団に怒られそうですが、)
そこに出てきた絵はマネの「草上の朝食」。
いやいやどんなパーティーやねんといわんばかりの作品です。
(突然登場させるのは刺激が強かったので、気になる方は下から検索どうぞ。)

当時のサロンやアカデミーが重視していた「高貴なテーマ(神話・宗教・歴史)」「整ったデッサン」「理性的・道徳的な内容」と、この作品はあえて距離を取っていたのです。

結果として、パリの批評家・観衆から「猥雑だ」「常識外だ」といった声が上がりました。

黙っちゃいない!独自に「印象派展」を開催

それならばと、印象派の若手たちは印象派展を独自に開きます。
とはいっても、ここでもまたボロクソに言われる印象派。

それでもめげずに12年間の間で8回の印象派展を開催し、徐々に認められていきました。
とことんしぶとくて熱い革命児たちでした。  ーええ、絵とは裏腹に。

こんなに綺麗な絵やのに、
なんで長いこと認められんかったん?

完璧な絵が評価された時代に、
ぼんやりして見える印象派は批評家にはすぐにピンとこなかったのよ。
当時は「描きかけの絵」とか「子供の落書き」とか散々だったみたいよ。

ちなみに「印象派」という言葉は第一回目の印象派展で
批評家ルイ=ルロワがモネの絵を「まるで印象の絵だ」と言ったのが始まり。
当時は皮肉を込めて言われた言葉でしたが、のちにこの絵が「印象派の象徴」として再評価されたのです。

モネ『印象・日の出』

穏やかな光を描く印象派、実は「サロンの批評を乗り越えた熱い革命児」たちだった。

印象派の巨匠・ルノワールは幸せオタク?

さて、冒頭のルノワールの名作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏』に戻りましょう。
日曜の午後、モンマルトルの丘のふもとにあるダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレット。
現代の人も夢見るような優雅な光景に、名をつけるなら「元祖インスタ映え」。

この絵を生み出したルノワールは、やはり「幸せオタク」だったのでしょうか。

ピエール=オーギュスト・ルノワール

  • 活動拠点:パリ
  • 作風:印象派
  • 主なモチーフ: 女性、風景、子ども、日常の楽しげなシーン

ルノワールはごく普通の庶民の家庭に生まれます。
3歳でパリに移り住み、20歳で美術学校に入学。ここで出会ったのがあのモネ、シスレー、ピサロたちでした。

ルノワール…といえば喫茶店を思い出すな…。

うらら
うらら

それはルノアール。クラシカルなあの雰囲気が特徴的よね。
一文字違いだけど、実は画家ルノワールの名前が由来って知ってた?

関係あるんや!

うん。「名画に恥じないように」って意味があるみたいよ。

パリピの遊び場?ムーラン・ド・ラ・ギャレット

そもそもムーラン・ド・ラ・ギャレットってなんなん?

パリピの遊び場。

あながち間違いではないわよ。
お金持ちの一家が風車を改装して庶民向けのカフェ兼ダンスホールにした。
皆、日曜になるとここに集まってワインを飲みながらダンスしたの。
19世紀パリ流のクラブといったところじゃないかしら。
ほらね、パリピの遊び場。

(パリピに恨みでもあるんか)

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの正体は、実在したカフェ兼ダンスホール。
モンマルトルの丘に本当にあった風車付きのダンスホールで、
日曜の午後になると、労働者も画家も一緒に踊り、笑い、ワインを飲んだ。
ワインを楽しんでいたことも踏まえると、「大衆酒場」と言った方がしっくりくるかもしれません。

ちなみにこの場所、今もレストランとして健在なんです。

▼レストラン・ムーラン・ド・ラ・ギャレット
住所:83 rue Lepic, 75018 Paris

ルノワールの凄さは光の表現にあった

ルノワールは印象派ならではの技術をこの絵の中で静かに魅せています。

柔らかい輪郭ととろけるような質感

ルノワールは輪郭線をはっきり描かず、色のにじみやぼかしで形をつくる。
絵全体が「空気」に包まれている感じがするのは、彼が意図的に境界をあいまいにしているからなんですね。

混色せず、キャンバス上で色を感じさせる「視覚混合」

パレット上で混ぜずに、青やオレンジなどの補色を並べて塗ることで、
見る人の目の中で自然に混ざって“光の効果”を生む。

これ、当時としては超新しい方法だったそうよ。

光の効果を重視した「筆触分割(ひっしょくぶんかつ)」

ルノワールは、光と影を伝統的な明暗法ではなく、色そのものの重なりで表現した。
たとえば木漏れ日が人物の顔や服にあたる場面では、
白・黄・青などの小さなタッチを隣り合わせに置くことで、きらめくような光を作り出しました。
これは「筆触分割」と呼ばれる印象派の特徴的技法です。

実はなんや難しい技がぎょうさん詰め込まれとんのやな。

ルノワールが描きたかった庶民的幸せ

実在したこのムーラン・ド・ラ・ギャレットは、庶民が日曜日に集まる場所
実は、この絵の中に映る人物はルノワールの友人たち

①手前に映る女性2人は姉妹で、下が妹のエステル。その上が姉のジャンヌ。
②左でダンスをしている男性は画家カルナデス、女性は当時ルノワールのお気に入りモデルのマルゴ。
③右側のテーブルに座っている3人の男性は左からフラン、ノルベール、そしてリヴィエール。

ルノワールが生涯で味わった苦痛は、印象派の戦いだけではありません。
普仏戦争での兵役経験パリ・コミューンでのフランスの混乱も目の当たりにしています。

ルノワールは、友人たちをモデルとして、そこに流れる「自由」「陽気さ」「生の喜び」を描きたかった。
当時格式ばった上流階級の集まりが存在する中で、ごく普通の庶民の日曜の笑顔を描いたのがこの絵なのです。

つまりこれは、パリの庶民が輝いた瞬間の記録であると同時に、
ルノワール自身の幸せの瞬間を捉えた記録でもあるんですね。

当時ルノワールはここの近くに住んでいたんだそう。
ただの騒ぎじゃなくて、“生きる喜び”そのものだったのかもしれない。
苦痛を乗り越えた果ての彼は、光の下で笑う人々を描くその筆で、
人生って、こんなに綺麗で幸せなんだ」って言いたかったのよ。

じーん(涙目)

”幸せオタクの正体”は、幸せを追求した画家、ルノワールの究極の形だった。

ちょこっと豆知識

実はこの世に2つ存在する!?

実はルノワールはこの絵を2つ描きました。
一つは現在オルセー美術館に。
もう一つは小型で、人物の数も少ないんです。現在は個人の所有になっているそう。

小型版ルノワール。特別感があってええなあ。
でもなんで2枚も描いたん?

その答えは単純で、ルノワールが
このテーマをあまりに気に入っていたからと言われているわ。

この幸せな空間にただならぬ想いがあったんやな。

おわりに:私は楽しい絵しか描かない

晩年のルノワールがそう言ったのは、体が思うように動かなくなってからのことです。
それでも彼は、リウマチで腕が動かなくなっても、絵を描き続けました。

晩年は筆を腕に括りつけてでも絵を描いたルノワール。
どんなメンタルよ!と言いたいところだけど、
絵を描くことで苦痛を光に変えていたのかもしれないわ。

絵を描くことは、ルノワールにとって「生きること」そのものだったのでしょう。

だからこそ、彼の絵にはいつまでもあたたかさと幸福感が溢れています。
「私は楽しい絵しか描かない」―これは単なる楽観ではなく、
苦しみの中でも光を見つけて描き続ける、ルノワールの意志の宣言だった。

現代にも通ずる強さを彼から学ぶのでした。

うららのアトリエについて

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